相馬野馬追(そうまのまおい)は、福島県相馬市中村地区を初めとする同県浜通り北部(旧相馬氏領。藩政下では中村藩)で行われる、を追う神事および祭りである。神事に関しては1952年、国の重要無形民俗文化財に指定されている[1]

東北地方夏祭りのさきがけと見なされ、東北六大祭りの1つとして紹介される場合もある。

ウイキペディアより引用

 

写真は2015年9月に福島県南相馬市から神奈川県秦野市に遊びに来てくださった小学生の勇姿


9月に神奈川県秦野市から380km離れた福島県南相馬市からお越しいただいた小学生からいただいたお手紙です。

 

ホームステイ先であっという間に過ぎた3泊4日という時間を次に繋げられるように私ども、南相馬子ども保養プロジェクトでは継続して活動を行ってまいります。

 

私たちのビジョンでは彼・彼女たちが小学生だった頃から、時を経て経て、これから先、子どもたちが成長して、同じ大学や、同じ会社、様々な場所で縁があり、同じ大学や職場に着き、過去、秦野市で過ごした想い出を起点として「再び会った瞬間に親友になる」

 

そんな瞬間を演出できればと・・・深く願います。


宮城県仙台市や福島県南相馬市の若者たちがその東日本大震災の経験を語った「被災地の今

ぜひその声を聞いてください。


2015年9月の福島県南相馬市14名の方をお招きした行事 において東日本大震災を経験した宮城県仙台市や福島県南相馬市の若者たちから伝えられた「被災地の今」

 

震災直後は連日、テレビなどのメディアで取り上げられてましたが今では、かなり少なくなりました

あれだけの未曾有の地震です。復興はまだまだです。今まで出会った東北の方たちは「自分たちは忘れたい。でも忘れられるのは寂しい」と涙を流しながらお話しされる方もいらっしゃいました。

 

未来kids projectでは今後も東日本大震災を風させないように定期的にこのようにお伝えする機会を設けたいと思っております。

宮城県仙台市出身東海大学文学部アメリカ文明学科3年佐藤万由さんと南相馬市塾の経営者佐藤晃大さんの話

放射能除染作業をする福島市在住の大切な友人からのビデオメッセージ「忘れないことは生きる事」(9月行事で放送)

東海大学生の勉強会での南相馬市佐藤晃大さんからのビデオレター。秦野市での生活と「福島県南相馬市の今」



私たちが住む神奈川県秦野市はあの東日本大震災以降、二宮尊徳にゆかりの深い地震、津波や東京電力第一原発の事故などにより甚大な被害を受けた福島県双葉・相馬地方の子どもたちの学費や生活費用の支援をする募金活動をしてきました。

そこへ縁があり秦野市に居住した若者が南相馬市出身で地元へ戻り塾を開講したその南相馬市の塾の生徒を招いた行事このプロジェクト設立のきっかけとなりました。

その福島県南相馬市の塾はこちらをご覧ください。


9月の行事で福島県南相馬市からお招きしたのは昨年までこの神奈川県秦野市で生活をし働いていた若者でした。彼が地元南相馬市の子どもたちのためにと昨年の夏に塾を開校されました。秦野市の方たちにも協力をされた方がいて、佐藤晃大さんにとっては第二の故郷です。

秦野市在住時の様子はこちらです。

その塾に通う南相馬市の子どもたち、そしてその親御さんを9月の行事にて往復の交通費など全額を多くの方のご協賛でお招きいたしました。

写真は東日本大震災10日後くらいの現地の写真です。今はこのような光景もだいぶ少なくなりましたがそれでも

復興への道のりはまだまだです。


現在の南相馬市は、平成18年1月1日、旧小高町、旧鹿島町、旧原町市の1市2町が合併して誕生。

 

 南相馬市の位置は、福島県浜通りの北部で太平洋に面し、面積は398.58平方kmです。東京からの距離は292kmで、いわき市と宮城県仙台市のほぼ中間にあります。

 

あの東京電力第一原子力発電所まで距離にして20kmから30kmの場所に位置。一部では避難指示解除準備区域、居住制限区域、帰宅困難区域などもあります。



上の写真は東日本大震災10日後の写真です。

 あの東日本大震災から4年8か月経ちました。当初と比べてテレビや新聞などでの露出はかなり減りました。

 

 縁があり2015年9月に14名の方を南相馬市から秦野市へお迎えいたしました。第一原子力発電所まで20km〜30km地域です。

 今では除染作業も進み線量は安定しているとはいうもののまだ作業が済んでいない山などの場所は線量の高いところもあります。そんな方たちを線量を気にしないで思いっきり遊んで欲しいという活動を「保養」と言います。 左の写真は南相馬市の海で以前は海水浴場だった場所です。周辺にあった家も津波で流されました。真の復興まではまだまだなのです。